みんなの声

白木 大輔さん

病院側がなんらかの告知方法を整備するのも必要だと思いますね。

白木 優希ちゃん

白木大輔さんと希佳さんの第一子として201X年5月に生まれる。生まれたときは2842グラム。本当に元気な赤ちゃんでした。お父さんの「優しい子に育ってほしい」との思いから “優” という文字と、お母さんの名前の一文字 “希” をもらって、優希と名付けました。

これまで大きな病気に罹ることはなかったのに…
4歳になるころまでは、なんら大きな病気に罹ることはなく、風邪かなと思い病院に連れていくと、*拡張型心筋症と診断され、この時から平穏な生活が一変しました。すぐに住まいのあった岐阜県内の病院から大阪大学病院へ搬送され、補助人工心臓を装着しました。

当時、小児用補助人工心臓は治験の段階で、優希は大人用の補助人工心臓を装着せざるえませんでした。それはつまり、血栓ができやすく、それが原因による脳梗塞や脳出血のリスクと常に隣り合わせということでもあります。でも、生きるためにはその方法しかありませんでした。

*拡張型心筋症 ー 心臓の筋肉が伸びきったゴムのように薄くなり、拡張して収縮力が低下。やがて全身の循環が悪くなり、死にいたる病気。最終の治療法は心臓移植を必要とする。

恐れていた脳梗塞

当時、国内での小児心臓移植は絶望的な状況だったことから、アメリカへの渡航移植を準備していました。受け入れ病院も決まり、これからは海外へ向けた長期戦になるんだろうな、と思っていたことをよく覚えています。

いつものように病院へ面会にいくと、優希の視線が定まらなくて、なんだかおかしいなぁ、と思っていました。いつもだったら目が合うんですけど、その日はまったく目が合わずに、黒目はずっと上のほうを見たまま。突然手を挙げて、何かを指してるように思えたんですよね。何かおかしいなぁって、すごく胸騒ぎがしました。

その翌日、先生から話があると言われ、脳の写真(CT)を見せてもらうと、脳のほとんど、5分の4ぐらいがもう真っ黒になっていたんです。血栓が大量に飛んで、脳梗塞になっていたんです。今思えば優希は必死に血栓が頭に飛んでいることを教えてくれていたのかもしれません。

臓器提供の決断

それから4日経過した朝、先生から「もうこれ以上治療の施しようがない。あとは心臓が止まるのを待つだけです」と言われました。とめどなく涙があふれました。これまでの楽しかった思い出が一気に押し寄せてきました。

でも自然と「先生それは、他の臓器は大丈夫ですか?」という言葉がでてきました。先生も察してくださって「大丈夫です」と。

自分たちはすごく臓器を求めていました。それが逆に提供側の立場になったときに、何もせずに終わると言うことは、ちょっと考えられませんでした。心臓をずっと求め続けてきたからこそ、反対に、スッと、提供側に回る選択ができたのだと思います。

僕が瞬発的に発言してしまいましたが、妻も後々「あなたがそう言うのを待っていた」と言ってくれました。

脳死判定

脳死判定はおよそ2日にわたって行われました。最初は簡易的(臨床的)な脳死判定をするんですよね。それを1回。そして法的脳死判定を(6歳未満の小児の場合は24時間おきに)2回します。計3回。脳波計をかなりマックスな状態にして付けていたり、耳の中に冷たい水を入れたり。見てもいいよ、ということだったので、その場で見ていましたが、かなり慎重に、繊細にやられていましたし、しっかり説明もしてくれました。

もう復活はないと、明らかにそこに命はないのがわかるんですよ。補助人工心臓で人工的に循環はしているので、手足は温かいのですが、明らかに命がないのがわかりました。感覚的にわかることを、ちゃんと調べることによって、確信に変わっていきました。

温かい時間

脳死判定が出るまで、家族そろって病室ですごしました。髪飾りを付けてあげたり、手や足に絵の具を塗って手形や足形を取ったり、みんなで歌を歌ったり、体を拭いてあげたり、それから、お疲れ様って言ってあげたりと、今までよくがんばったなって感じで。

病院が個室を用意してくれたおかげで、これまで面会できなかった(多くの病院では感染対策の観点より15歳以下の病棟への入室は禁止されている)妹や仲のよかった従姉妹もこの部屋に入ることができて、やっと会えたという感じでした。妻はこれまでずっと長い期間できなかった抱っこをすることができたり、別れの準備をするための、尊く、温かい時間でした。

敬意をもって行われた臓器摘出

まず、娘は手術室に入ります。それから、全国のいろいろなところから先生がやって来られるんですよね、臓器の摘出に。先生方は僕らのところに挨拶にこられて、「きれいな(状態の良好な)臓器でした。大事に使わせてもらいます。ありがとうございます。」みたいなことを言って去っていきます。結局、臓器摘出手術は朝方までかかったかと思います。

ラジオから流れるニュース

臓器を摘出したあと、優希をいつも着ていた服に着替えさせて、僕が車の後部座席で抱っこして岐阜まで帰りました。臓器を摘出したからといって軽くなった感じはありませんでした。「やっと抱っこできたなぁ」という思いを噛み締めながら帰路につきました。

お葬式の準備をしているためだったか、ちょっと車に乗っていたときのことです。ラジオから「脳死判定のもと女の子から提供された臓器の移植が成功しました」といニュースが、たまたま流れてきました。「手術が成功しました」って。

うれしいんですけど、うれしかったんですけど、すごく涙がでてきました。

臓器提供が灯す希望の光

肺を移植した女の子からコーディネーターさんを介して手紙が届きました。「自転車に乗れるようになった」と書かれていました。その女の子のご家族の背景に思いを馳せると、きっとその子は生まれてからずっと酸素ボンベが必要で、入退院を繰り返してきた子だと思うんですよね。もちろん、その子も大変だったでしょうが、その周りの家族も大変だったにちがいない。でも優希の肺を提供したことによって、その家族の方々にも希望の光が灯ったと思うと、私たちが選択したことって、やはり間違っていなかったと思いますね。

だからといって、その女の子やご家族のことを知ろうとは思いません。その子やご家族にプレッシャーになってもダメだなと思いますもんね。空は続いているから、その子やご家族も同じ空を見ているかもしれない。そんな感じです。

脳死、告知ー臓器提供のハードル

臓器提供する、しないの選択肢がないのが大きな問題だと思います。脳死の状態になっても、医者が、先生が脳死とは言わないです。きっと、言えない医療従事者がほとんどだと思います。

僕らは待つ側を経験したから、すんなりと臓器提供と言う選択ができました。でも、多くの場合、事故などで突然、そうした状態になるわけで、そうなったときに、脳死による臓器提供といった選択肢が出てくる人って、何パーセントいるんだろうなって。

医師から、そういった事態になった際に、その選択肢を患者の家族に伝えるってことは、たぶん酷なことだと思うけれど、やはり、病院側がなんらかの告知方法を整備するのも必要だと思いますね。

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